ココがポイント
伊勢市のターミナル駅と言えば、伊勢市駅ではなく、近鉄の主要駅となっている宇治山田駅を連想する人も多いはず。しかし、何故、宇治山田駅が主要駅になっているのであろうか?伊勢市は1955年までは宇治山田市と言ったのである。お年寄りは知っているが、今の若い人はあまり知らない。伊勢国や伊勢神宮などがあるため、昔から伊勢市というものが存在していたと思ってしまうのであるが、宇治と山田もそれなりに由緒ある名前なのである。今回はその歴史を紹介していきたい。







伊勢市の名前の変遷
近代の伊勢の名称の変遷を見てみると、1889年(明治22年)に市制・町村制を施行するにあたり地名をどうするのかという議論が起こり、内宮鳥居前町の宇治と外宮鳥居前町の山田の両方の名を合わせた宇治山田という地名が「宇治と山田は古来から全国民に親しまれている」という理由から決定された。
地名については、神都や伊勢の名を関するべきなど様々な議論があったようで、決定後も、ことあるごとに地名議論が何回も起こっている。市名改称公聴会が何度か開催されたようであるが、現在の伊勢市になったのは1955年のことである。
しかしながら60年以上も親しまれた宇治山田の名称は現在でもいたるところに残っており、宇治山田駅や宇治山田高校などは有名である。
宇治とはどの地域?
それでは、宇治とはどの地域のことを指すのであろうか?内宮の鳥居前町として発達してきた地域を指して宇治という。現在でも伊勢観光の中心地であるおかげ横丁のあたりと言えば分かりやすいと思う。伊勢市街地の南東、五十鈴川の両岸に位置する平地と、内宮と外宮の中間にある古市丘陵からなっている。狭義には古市地区は別とするようであるが、まあ、あのあたり一帯と考えれば良いだろう。
古市は現在こそぱっとしないが、その昔は、外宮から内宮に至る通路として、遊郭が立ち並ぶ歓楽街として大変繁栄した場所であった。 江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓に数えられていた。古市丘陵を迂回する道が整備されると徐々に廃れていったようである。
では、山田とはどのあたり?
伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、 宮川と勢田川に挟まれた平地のあたりを指し、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音したらしい。
その昔は、宇治と山田は対立し、たびたび衝突していた。山田側は地理的優位性を利用して、宇治へと繋がる道を封鎖し、参宮客が宇治に流れるのを阻止していたようで、宇治は山田の町や神宮に火を放つなどして応戦し厳しく対立していた。
山田の往時の経済力は非常に大きかったようで、幕府としても無視することができず、徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長8年(1603年)にかの有名な山田奉行所を山田吹上に置いた。
山田奉行所あれこれ
ついでに、山田奉行についてもちょっとふれておこう。まず、江戸自体には「ようだぶぎょう」と読んだ。これは、江戸幕府の役職である遠国奉行(おんごくぶぎょう)の一つであり、伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを行った。大岡越前のおかげでもっとも有名な遠国奉行と言っても過言ではない。奉行所は最初、山田に置かれていたが、のち度会郡小林(現・伊勢市御薗町)に移転した。山田奉行所記念館は後者の場所にある。
なお、山田奉行の格は当然ながら非常に高く、徳川家康ゆかりの日光奉行と同等同格となっており、定員は1~2名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となる。役高は1000石で、役料1500俵を支給された。配下は与力6騎・同心70人・水主40人。
なお、遠国奉行は、江戸以外の幕府直轄領のうち重要な場所に置かれ、伏見奉行は大名から、他は旗本から任ぜられた。
まとめ
伊勢市は昔から伊勢市という名前であったと錯覚することが多いのであるが、1955年に改称したばかりの比較的新しい市名である。以前は宇治山田市と呼ばれており、しかもその宇治と山田が昔は対立していた、というのだから興味深い。
市名を決定するにあたり、大変な議論が巻き起こり、なかなか決まらず、妥協の宇治山田市となり、しかも決定後も議論が絶えなかったのもうなづける。
宇治山田市というのもなかなか歴史を感じさせる良い名前であると思うのであるが、伊勢市はやはり伊勢神宮の伊勢市がしっくりくる、と個人的には思ってしまうのである。



そうですね、宇治山田という歴史を忘れずに、伊勢の伝統を受け継いでいく、これが大切ですね!
